真っ直ぐな道を曲がった先に続く僕の長い英語道

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学習は謙虚に。知識は尊いものであるから。

以前の記事
仕事用にSNSやブログをはじめてみて感じること - 真っ直ぐな道を曲がった先に続く僕の長い英語道]
にも書いたことであるが、言語を学習していると、日本人の数多くが言語ないしは学問自体を甘く見ているのではないだろうかという気持ちにならざる負えない残念な出来事に出くわす。

例えば、
短期間で語学スキルを伸ばそうとすること、
苦しく身のある方法ではなく楽な方法ばかりを求めること、
学習時間を短く済ませようとすること、
そして学習自体を続けられないこと

など事柄をあげれば枚挙にいとまがない。

このような心構えでは、「どれだけ英語学習が必要」と人が叫ぼうが、施設や制度ができようが、日本人はいつまでたっても英語をできるようにはならない。そしてそれは、主語を英語以外のもの、例えば数学やプログラミングに置き換えても全く同じことである。

そもそもなぜ語学や学問を学ぶ際に
短期間で学ぶことが可能と思うのか。
楽に学べる方法が存在すると考えているのか。
学習時間が短く抑えられると考えているのだろうか。

これらは、実際に存在する事柄と言うよりも、人間の怠惰な姿勢が産み出したたんなる欲求ととらえても良いだろう。
そして本当にこの欲求は何かを本心から学習したことのない人間、または学習するということ自体が喜びや人生を豊かにしていくことに繋がると言う成功体験を小さいながらでも得ることができなかった人間が作り出す悲しい欲求なのではないかと考える。

何か利のある物事を習得するために、なぜここまで傲慢になれるのだろうか。
学習と言うのは、もっと謙虚に行うべきであり、学問などを学習することで得られる知識は尊いもののはずだ。
知識を得ることで人々は成長し、知識を得るために戦い、時に知識に怯え、知識を独り占めしようとする者もいるのである。

かつてユダヤ人は、どのような金品を奪われようが、書物は奪われないように努めた。
そして、頭にいれた知識だけは奪われないために、必死に知識を詰め込んだ。
知識はそれぐらいに尊いものであるはずだ。

この基本的で当たり前なことすら、現代人は忘れてしまっているのではないだろうか。

学問は数ヵ月などと言う生易しい時間で手にはいるものではない。
知識は楽に習得してしまっては、知識ではない。
学習時間を短く抑えられるほど、何万年もかけて人間の考え出してきた事柄は簡単ではないはずだ。

筆者は、この怠惰な欲求に出くわす度に、学問ないしは先人が紡いできてくれた知識や経験、人類が歩んできた歴史、そして人類自体を冒涜しているのではないかとすら感じる。

語学や学問を学ぶ際に、

短期間で学びたい、
楽に学べる方法が良い、
学習時間を短く抑えたい

という希望を抱くことは、

野球やサッカーをできるようになりたいのに、

すぐにできるようになりたい、
走りたくない、
ドリブルしたくない、
ボールにさわりたくない、
バットをふりたくない、
練習時間を短くしたい、
練習したくない

と考え、その通りに行動することと全く同じである。

語学や学問を学び始めたすぐの段階で、

うまくならないのは、この参考書が使えないから、
この教室が自分に合わないから、
といってどんどん新しい参考書や教室に移っていくことは

野球やサッカーを練習し始めたばかりなのに、

うまくならないのは、このグローブやボールやスパイクのせいだ、
教えてくれる監督やコーチが悪い

といっているのとほぼ同じであると思う。

果たして、そんな人間が野球やサッカーをできるようになった試しがあるのだろうか。
答えは、言うまでもないだろう。

それがなぜ言語や学問ではできると感じてしまう人間がこれほどまでに多いのだろうか。
以前のブログでは、この理由を学習者の怠惰な欲求とそれを利用して成長してきたビジネスの観点を中心に書いた。

今回はこの視点に、日本人の持つ自己イメージ、国民性、そして考え方という視点を加えたい。

日本人の持つ日本人に対する自己イメージ、国民性、考え方として、

自分達日本人が人種的に、国民的に他国の人間より頭が良いと思っていないだろうか。

自分達が勤勉と思っていないだろうか。

自分達の話している日本語は、他の外国語に比べて、複雑で難しい言語で、美しいものであると考えていないだろうか。

自分達は日本語の上級者であり、日本語で書かれたり話されていることがらならほぼ理解できるとおもっていないだろうか。

筆者は、この日本人が自分達で信仰している潜在意識レベルに刷り込まれたといっても過言ではない日本人像というものが、学習や学問を習得することの足かせになっている原因のひとつではないかと考える。

自分達は、人種的に他国の人間より頭が良いと思っているから、英語はいつでも簡単に習得できると思ってしまう。

自分達は、勤勉であると信じているから、少し取り組めばできるようになると根拠のない考えを持つ。
そして、いざ学習することが必要になったら自分も勤勉に取り組めるはずだと思う。

自分達は、日本語は他言語よりも複雑で難しい言語だから、その言語を日常で使っている自分達日本人が、諸外国語の習得に励めば、すぐに習得できるはずだと考える。

自分達は、日本語を毎日話しているので、長文の小説や化学、物理、生物、医療、歴史、政治、ビジネス、経済、国際問題、社会問題など専門分野についての論文や話題もすぐに理解できると考えてしまう。

しかしながらこの上にあげた考えは、真実であろうか。

人類は多少能力差がることは否めないが、運動能力など体格に応じたものではない、勉学的な能力は人種間での差異があると考えるよりも、学習できる環境があり、その中で学習してきたかによるのではないか。

日本人が勤勉であるという科学的根拠は乏しく、昨今改善が叫ばれている低い労働生産性や、教育期間での休みのない部活動、学校に根付く居残り勉強などを見るに、日本人は勤勉であるのではなく、その場所にただ長時間いることが得意なだけであり、何かに取り組んでいるふりをするのが得意なのではないか。

日本語が他言語に比べて難しいのは、文法、単語など多くの要素が、他の言語と違っているために、他言語使用者が日本語を学習することが難しいのであって、日本語自体が難しいのではないのではないだろうか。つまり我々日本人が他言語を学習することもまた、当然のように難しいのではないか。

毎日日本語を話しているとはいえ、学生時代を思い出してみると、日本語で書かれた現代文の小説や論説の文章ですら、解読できず、問題に対して誤って解答していなかっただろうか。

このように捕らえてみると、日本人が描いている自分達の像というのは、幻想に近いものだと考え直すことができる。

もちろん日本人の中に真に勤勉な人間も、頭脳明晰な人間も数多くいる。そしていた。日本語のなかで難しい表現を用いたり、数多くの表現を用いて、難解な文章や他人の心を動かす文章を書く、話をする人間も確かにいる。そしていた。

しかしながらそれはあくまで一部の人間がそのような性質を先天的に持ち合わせていたり、後天的努力によって習得したものであり、全ての日本人が何の努力もせずに先天的性質として持ち合わせているものではないはずである。

このような信仰にとらわれている人間は、日本語でも自分が読みこなせない文章や話せない単語や文章があるということを認識していない。または認識していたとしても認めようとしない。

読みこなせない文章の存在を確かめるには、自分の得意分野ではない、新聞記事、論文、小説などを読んでみるといい。すぐに自分が理解できていない日本語があるということに気づくであろう。

ここで話の例えとして英検の長文問題をとりあげる。英検の長文問題には、化学、物理、生物、医療、歴史、政治、ビジネス、経済、国際問題、社会問題などの上で述べたような話題が多く出てくる。

これらの話題を日本語の文章で日常的に読みこなしている人は、果たしてどれだけ存在しているだろうか。
おそらく多くの人が、例え日本語であってもこれらの話題書かれた文章を読む機会、これらの話題について話す機会は限られていて、わかりづらい話題であると思う。 この日本語ですら理解しづらい話題を、英検では英語で理解しないと問題を解けないのだ。

このようなわかりにくい話題に触れることで、ほとんどの私たち日本人は、日常生活でよく使われる日本語を使える、または使っているだけであり、本当に深い部分まで掘り下げた話題や文章を扱えるかどうかは、個人間の知識などに応じるのだということに気づく。そして、何十年も日本語を読み、聞き、書き、話しているのに、母語である日本語ですら、まだまだ知らないのだということに気づくことができる。

資格試験に的を絞れば、短期間でテクニックや出題される知識を詰め込み、点数をあげる人、合格を手にする人もいる。
しかし、その資格分野の知識を長年幅広く身につけてきて、点数をあげている人、合格している人とは、点数や結果が同じであっても、経験や知識の量には雲泥の差がでる。

言語を使った会話に的を絞れば、表面的な会話で使う表現を丸暗記し、コミュニケーションをとる人もいる。
しかし、その表現をより深く分析し、理解し、その会話に使う言語を学習するために長期間を使い、日々取り組んでいる人とは、話している文章が同じであっても、会話の奥行き、話題の深さ、感じられる感覚、使える単語や表現の数には、雲泥の差が出るはずだ。

このように気づくことができれば、いかに短期間で楽な方法で言語や学問を身に付けるということが傲慢かつ非現実的なことであるかがわかると思う。

私たちは、自分達にプライドや誇りを持つことは必要なことである。
しかし、そのプライドや誇りが傲慢な考えや欲求に繋がってしまうのであれば、あまりに悲しい。

そのプライドや誇りは他者から誉められたときだけ、少し喜べばよいものであり、自分達がそうなのだと過信してしまってはならない。

私たち日本人が自分達の日本人像として持ち合わせていると考えている他のものとして、「おくゆかしさ」、「謙虚さ」があるはずだ。

今こそこの2つを使って、何かを「学ぶ」という姿勢を見つめ直すことが必要であると筆者は強く思う。

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